舞鶴かまぼこの歴史(その1)
舞鶴のかまぼこの歴史は関が原の合戦あたりに遡ります。
「古今伝授」の話は、先にも触れたように戦国時代に舞鶴に国家的な文化人がいたという市民の誇りです。日本史に残る「関が原の合戦」と「古今伝授」が、何と舞鶴のかまぼこと関係があるのです。この意外性について少し歴史を紐解いてみます。
関が原合戦の前、細川幽斉の子忠興は家康側につき、全軍を率いて会津征伐に向かっていました。
この隙をねらい石田三成は、打倒徳川を企て大坂城下にいた忠興の妻ガラシャを人質にしようとしました。
しかし、ガラシャが自害したので、三成は腹をたて、福知山城主小野木縫殿助ら三成方の軍勢1万5千騎をもって丹後に侵攻させました。
宮津城で留守をあずかっていた幽斉は、石田勢の大軍が侵攻してくるのを聞き、決死の覚悟で宮津、久美、嶺山の諸城を焼き払い、船で舞鶴城にわたり、篭城戦を決行しました。 その時、城下の桂林寺の僧や町民などが防戦に志願し城に集まりましたが、敵の数1万5千人に対して味方はわずか5百人でした。
当時の舞鶴城は北が海、東西は川、南は馬が渡れないほど深い湿田で、難攻不落の城でした。
かねてより、幽斉から歌道を教わっていた八条宮智仁が篭城のことを知り、後陽成天皇に幽斉を救って欲しいと願い出ます。
天皇は「幽斉が討ち死にすると、古今伝授するものがいなくなり、本朝の新道奥義、和歌の秘密が長く途絶え、神国のおきてむなしくなる」と憂い、使者に城を明け渡すようにと再三伝えたが、幽斉は武士としてそれはできないと断り続けたのでした。しかし、度重なる和議救済の使者の意を解し、幽斉が城を明け渡すことを決めたのは、関が原の合戦後3日目のことでした。
この篭城戦は実に60日余りに及びました。三成方の軍勢1万5千人が、わずか5百名で守る舞鶴城に釘付けになり、天下分け目の合戦に参加できなかったことが、結果的に家康方に勝利をもたらしたのです。幽斉が当代屈指の文化人であったことがその身を助けたのです。
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