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2006年11月 8日 (水)

舞鶴かまぼこの歴史(その2)

Kanmuri
関が原の合戦後、このことを知った家康はいたく感銘を受け、合戦の恩賞として、忠興には、九州の豊前国と豊後国の一部を与え、幽斉にも以前と同様の領地六千石が認めたのでした。
この合戦の前後に地元漁師が水軍にも劣らない活躍をしたとして漁師は「領土波打際三間漁師勝手次第」の待遇を受けることとなりました。
 土目録から推測すると、漁師は竹屋町尻の海辺一体に居住して、田辺藩の「海子(かこ)」の扱いを受けていました。これらの漁師が、与えられた権利を活用し、かまぼこ製造に取組んだことは想像に難くありません。舞鶴には、文政年間創業のかまぼこ屋さんも現存しています。
 明治34年の鎮守府開設後、軍人や軍港施設の工事作業員などが集まり、人口が爆発的に増えていったことや、鶴阪鉄道の開通にともない沿線地区への販路拡大が可能になり、舞鶴のかまぼこ生産は順調に業績を伸ばしていきました。そして終戦、魚類経済統制解除後の昭和25~26年にかけて組合設立が相次ぎ、徐々にかまぼこの街としての基盤を築いていったのでした。
 しかし、順調なことばかりではなく、保管資料によれば明治42年の大火、昭和28年の13号台風直撃で、生産地吉原地区が壊滅的な被害を蒙ったことが記されています。歴史的大きな災害に2度も遭いながら、そこから立ち上がった粘り強さが、伝統の製法を守り続ける辛抱強さの根源になっているのではないかと常々考えています。
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