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2010年6月28日 (月)

舞鶴蒲鉾協同組合の事務所(その2)

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平成21年にはいると、当時としては最新であった組合事務所も築後37年が経過し、老朽化が進み、地盤沈下による事務所等の床の沈降、倉庫や、応接間の窓枠がゆがんで、“開かずの窓”が多数出てきたりするようになった。 なんどか細かく補修はしてきたのだが、追いつかない面もあり、新しく事務所建設をしてもらうべく、組合員に諮ったときから、急に、おどり場の天井の一部が突然腐って落ちてきたり、雨漏りがひどくなったり、台所中心にシロアリが大量発生しているのが発見されたりと、賛否を問うまでもなく、事務所建替えを考えざるを得ない状態になったのである。
建設の数年前、原料すりみの暴騰が起こったために、組合員の製品価格の改訂に奔走し,地域の小売店にも窮状を理解していただき、価格改訂がなんとかできたことや、組合の仕入に関しても買い付けが非常に上手であったこともあり、組合の事務所建替えに向けた必要な資金に対してのある程度までの準備をすることができた。
また、このときまでに、組合は出資金に相当する金額の内部留保をすでにしており、近年、組合がそれなりの利益をあげ続けてきたことが事務所建替えへの組合役職員の自信につながったといえる。
 地盤沈下の激しい海沿いの場所では、自重のある鉄筋コンクリート建築では、また何年かすると沈下してきて悪影響を及ぼすので、より軽い木造建設のほうがベターであると判断し、新事務所棟は木造建築とすることに決定した。
 設計は、斉藤設計事務所、施工業者は石田組と決定し、地盤処理および付属経費も含めて5000万円程度の建設見積りでゴーサインをだした。
今回は、事務所棟だけだったので、対象となる政府系の融資制度もなく、ほぼ銀行借入れと手元資金のみで建設することとした。
 平成22年4月の組合の年度開始と共に、工事を開始した。 開始してから旧事務所の取り壊しに1ヶ月近くかかった。 そして取り壊してから約一ヶ月半も経過した5月15日に朝代神社の神主さんをお呼びして地鎮祭をおこない、地盤の調査をして70箇所以上に湿式柱状改良工事(杭長10メートル)を施してから、土台の組み立てに入り、平成22年6月24日に上棟式の日を迎えた。 上棟式は会社の建物の四角と便所に清酒をまいて清めた。 昔ならここで、大工さんたちに酒をふるまってお祝いしたのだが、現在、車の運転が必須であり、そのようなお祝いのやり方はできない時代でもあり、舞鶴かまぼこの受賞記念セットを大工さん全員に配ってお祝いの替わりとした。
 周囲の人からは「しっかりした土台だったので、鉄筋コンクリートの社屋が建つと思っていた。 最近、これほど大きな木造建築は久しぶりに見た。」との声をきくほどであった。(写真は上棟式直後の組合事務所である。)

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2010年6月25日 (金)

舞鶴蒲鉾協同組合の事務所(その1)

昭和47年10月13日、払い込み済み出資金 3420万円(組合員数14名)で舞鶴蒲鉾協同組合が設置された。(昭和55年には7500万円に増資された。)
その一年後、昭和48年4月7日に組合の事務所、冷蔵庫、倉庫などが現在の組合敷地に建設されている。 竣工式当時の組合の役職員の写真が残されている。
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ご存命の方もおられるが、写真に写っている半分近い方が鬼籍に入られている。
特に最前列中央の宮越氏は私が組合に入社(昭和54年)したときの理事長であり、最前列最右に座しておられる嶋田氏(当時の理事の中では若かった)は、私が参事として20年近くおつかえした最も思い出深い理事長である。二人とも、すでにお亡くなりになっておられるが、思い出があまりに多く、写真を見るたびに目頭が熱くなる。
 その嶋田氏の横に座っておられるのが、現在も存命中の山下氏である。
当時、山源という舞鶴市内で一番の人気店であったかまぼこ屋社長であり、組合では宮越理事長と嶋田理事長の間の3期6年の間、理事長をつとめられた方である。 港湾道路の開通で立ち退き要請を行政から受けた際、諸般の事情により多くの市民に惜しまれながら、山源廃業の決断をされた。(平成16年)
 その山下氏の横は、かつての組合専務理事をしておられた吉田氏である。たいへん厳しい上司であったが、わたしはこの人によって苦労して学ばせていただいたことがずいぶんん多かったと思っている。 舞鶴蒲鉾協同組合の組織の骨組みはこの吉田氏によってできたといっても過言ではないだろう。また、2段目の最左側に立っておられるのが嶋岩の先代社長である。 私が組合に入社してから、存命中は、格別に可愛がっていただいて、よく京阪神へ営業に連れて行っていただき、公私共にお世話になった。 とにかく見ていると、それぞれに思い出がありここでは書き尽くせないものがある。

初代組合の収支予算書が残っているが、それをみると、事業収入は6億8千万円となっており、現在の組合の事業収入よりも多い。(組合員数が現在5名であるが、当時は14名であったことで、組合員数の規模からすると約3分の1になっているので仕方のないことといえば仕方ないのだが)

当時の資金計画を見ていると、土地代として1500万円(取得費用123万円は別)、建物代として3225万円、冷蔵庫設備に1000万円、その他の設備に1400万円、当時の運転資金として1500万円程度を見込んでいる。その他もろもろで9000万円程度の資金が必要だったようであり、その約半分は高度化資金を活用して、残りを払込出資金と銀行の長期借入でまかなうということになっていたようである。
当時の組合には、組合員が協同で使えるような真空包装機械や冷却装置なども配備されていたようである。(後に真空包装機、冷却機は組合員さんに払い下げられたようである)

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